わからないことは尊い

何のために生きるのか。
何のために働くのか。
自分の目指すところはどこで
どうやったらそこに辿り着けるのか。

最近、このようなことが会話のテーマになる場面が偶然にも重なったので、私も考える機会が多くありました。

私たちは生きているなかで、意味や答えを探しがちです。
そしてそれは「正解」でないといけないと思いがちのように感じます。
しかし、常に答えが出せたり、それが正解だと思えることは、多くはないのではないでしょうか。
そもそも「正解」など実はないのではないかと思うのです。
仮に、その人にとっての正解が見つかったとしても、その正解は環境や自分自身の変化によっても変わっていくものです。
ですので、絶対に変わらない「正解」はないのだと思うのです。

しかし、答えが見つからないと自分の存在意義が感じられなかったり
不安になったり虚しくなってしまうのだと、多くの方が仰います。

今このコラムを書いている私も、定期的に「答えを探してその答えに向かって突き進まなければ」という強迫観念のようなものに襲われることがあります。
そういった考えも自分の行動を後押ししてくれるので、必要なものだとも思います。
ですがその一方で、答えや正解だけにこだわってしまう時、見落としているものもたくさんあるように思うのです。

どんなことも毎日も、何もないんじゃない。
小さな変化、驚き、ちょっとした嬉しい瞬間もがっかりした瞬間も…… そういった小さな構成要素を、もっと面白がってもいいんじゃないかなと思ったりします。
そのようなちょっとした面白さは、意味や答えや正解を求めすぎると見えなくなってしまうものなのではないかと感じます。

そして、実はわからないことこそ尊い。私はそう思います。
自分の正解はGoogleで検索しても出てきません。
AIに聞いてみたら、それっぽい答えはくれるかもしれませんが、それはあなた自身が出した答えにはなりません。
答えがわからないということは、あなたにとってそれだけ複雑で、迷ったり悩んだりする価値がある課題ということですよね。
だとしたら、自分の答えを出そうとして悩んだりもがいているその道のりは、あなたにしか歩けない尊いものなのではないでしょうか。

だから、わからないことに対して焦る必要などないのです。
自分にとって出せない答えをずっと探し続けることに一生を費やすとしても、それも素敵なことであり、それこそ生きた意味のように思うのです。

私自身も、たまに答えが見つかったと思ってすっきりしたり、かと思えばまたわからなくなって立ち止まったりを繰り返しています。
そんな道のりのなかで、皆さんとの出会いがあったり、皆さんの生きる意味を一緒に考えたり、皆さんの変化に嬉しくなったり、自分の力不足にがっかりしたり……そういう毎日を味わいつつ、自分にとっての「わからない」を探すこと。

これが私にとっても尊いことだと思っています。