不器用でも、自分でありたいと思った日

「ずる賢く振る舞えば、もっと評価されるのかもしれない。
でも私は、不器用でも、自分が正しいと思える自分でいたいんです」

そんなふうに語ってくれた方がいました。
その方から許可をいただいたので、今回のコラムに書かせていただきます。

その方は、職場で理不尽さを感じながらも、自分の意見をうまく言葉にできず、
日々悩みを抱え込んでいました。上司からの評価に悩み、努力が認められないことに苦しんでいました。
ボーナスの査定が、どれだけ上司に気に入られるかで決まると感じている。そんな現実のなかで、
「うまく立ち回れる人」「印象を良く見せられる人」が評価されていくことが、どうしても納得できない。

「私は、上司が見ていないところで、身体も心も犠牲にして、限界まで頑張ってきました。
でも、そういう頑張りは評価されない。ただアピールが下手なだけで、頑張っていないように見える」
そう語るその姿には、悔しさと、静かな誇りが同居していました。

「本当は、もっと評価されたい。でも、上司に気に入られるために、自分を偽るような振る舞いはしたくない。
それは、私がありたい自分じゃないんです」
その言葉を聞いたとき、私ははっとしました。

社会のなかで、組織のなかで、自分を貫くことの難しさ。
“正しさ”よりも“扱いやすさ”が重視される場面も少なくない中で、
「それでも私は、私でいたい」と語るその言葉と表情は、とても力強く真っ直ぐだと感じました。

その方は、こうも言いました。
「たぶんこれからも悩むし、落ち込むと思います。そのたびに、また気持ちが下がる。
でも……それでも、いいんですよね?」

私は、心から「それでいい」と思いました。
理不尽に傷つきながらも、自分を偽らない道を選ぼうとするその姿に、
私はひとつの誇りのようなものを感じました。

その方は「今日はこの覚悟を話したくてここに来ました」と言いました。
そして私は、「あなたの覚悟をしっかり受け取りました」と伝えました。
まるで、誓いの証人になるような気持ちで。

カウンセリングという場は、ときに、こうして誰かの“覚悟”を受け取る場所になります。
答えを与えるのではなく、その人が自分自身の言葉で語った「こうありたい自分」に、ただ静かに立ち会う。
その人自身さえ気づいていなかった願いを、そっとすくい上げるようなやり取りが、心に残る時間となっていくのです。

正しさは、誰かから与えられるものではありません。
不器用でも、自分が「これが私のありたい姿だ」と思える道を、静かに歩こうとする人を、私は心から応援したいと思いました。

そして、そう思える瞬間に立ち会えることこそが、
この仕事を続ける私自身の支えでもあるのだと、改めて感じています。

このコラムを読んでくださっているあなたにも、もしかしたら「自分を偽らずにいたい」と思った瞬間があるかもしれません。
すぐに評価されない道や、正解のない選択に、不安を抱えることもあるでしょう。
でも、誰かが見ていないところで静かに積み重ねてきた想いや努力は、確かに“あなた”をつくっています。
そして、その在り方に共鳴し、そっと見届ける誰かが、きっとどこかにいます。

だからどうか、「ありたい自分」でいようとすることを躊躇せず、堂々とあなたの日々を歩んでください。