変わることは、再生でもある
先日、久しぶりに実家に帰省したときのことです。
父と母のやり取りを何気なく見ていて、ふと心に残るものがありました。
昔の父は、よく喋り、よく怒り、場を仕切る「昭和のオヤジ」そのものでした。
母はいつも控えめで、父の少し後ろを歩くような人。そんな二人でした。
でも今の二人は、すっかり違う形でやり取りをしています。
病気をいくつか経験した父は、身体に麻痺が残り、言葉もなかなかスムーズに出てきません。
かつてのように指示を出したり、大きな声を出すことも少なくなりました。
一方の母は、父の体調を気にかけて「歩かないと歩けなくなっちゃうでしょ」「声を出さないと言葉が出なくなっちゃうから、新聞を音読して」などと、毎日小さなお説教をしています。
あれほど短気だった父が、にこにこと母のお説教を聞きながら
「ちゃんとやってるよ(やってないのに)」「そんなに怒るなよ〜」と笑って返しています。
以前はどんな場面でも冷静で落ち着いていた母が、今は父の体調や言動に一喜一憂し、振り回されているようにも見えます。
でも、それがなんだか微笑ましくて、幸せそうにすら見えてきます。
母は昔、「父のぐいぐいリードしてくれるところに惹かれて、この人なら守ってくれると思って結婚した」と話していました。
でも今は、すっかり立場が逆になって、母が父をリードし、守り、そしてその傍で父は穏やかに微笑んでいます。
なかなか言葉が出てこない父が、「あぁぁぁあの……」と懸命に絞り出したその先の言葉は、ただの「おいしい」だったりします。
拍子抜けして笑いがこぼれますが、その一言が愛おしく感じられます。
たしかに、父が饒舌に話せなくなったことは寂しくないわけではありません。
でも今の二人のやり取りには、どこか穏やかで、あたたかくて、昔とは違った優しさがあります。
「何かを失った」と思えば、そうなのかもしれません。
けれどその一方で、「新しい日々」が始まっているようにも見えます。
父と母の関係は、変化しながら、でも確かに続いていて、今もなお書き換えられ続けているのです。
カウンセリングの場でも、変化を「失うこと」として語る人は多くいらっしゃいます。
「昔はもっと頭の回転が速かった」
「体力があった」「頑張れていた」
「あの頃はみんなに可愛がられていた」
そうやって、かつての自分と比べて、今の自分を嘆いてしまう方々。
変わったことを「できなくなったこと」として数え、戻れないことへの悲しみや怒りに囚われてしまっているように見えます。
そんなとき、ふと思い出す本があります。
“脳の可塑性”について書かれたものでした。
私の記憶が正しければ、脳には「可塑性(かそせい)」と呼ばれる性質があります。
どこかが傷ついても、別の部位がその機能を補おうとして働きはじめます。
しかもそれは、年齢に関係なく、生きている限り起こり続けるのだそうです。
このことを知ったとき、私は希望を感じました。
何かを失っても、それで終わりではない。
脳は、新しい形で何かを生み出そうとするのです。
それはきっと、脳だけではなく、人生にも言えるのではないかと思います。
人との関係性も、ものの捉え方も、自分自身も。
一度壊れたり、失ったりしても、また別の形で補い合い、再構築していける。
何度も何度も、再生していける。
それは、昨日と少し違う今日を生き直すことができるということ。
見えないくらい小さな変化を重ねながら、自分を少しずつ編み直していけるということ。
ずっと同じ場所に立ち続けなくても大丈夫です。
変わっていくことの中にも、穏やかな喜びや、静かな希望はあります。
変わることを恐れすぎず、その中に生まれてくる新しい関係や、変化していくあなた自身に、そっと目を向けてみてほしいと思います。
父と母のやり取りを何気なく見ていて、ふと心に残るものがありました。
昔の父は、よく喋り、よく怒り、場を仕切る「昭和のオヤジ」そのものでした。
母はいつも控えめで、父の少し後ろを歩くような人。そんな二人でした。
でも今の二人は、すっかり違う形でやり取りをしています。
病気をいくつか経験した父は、身体に麻痺が残り、言葉もなかなかスムーズに出てきません。
かつてのように指示を出したり、大きな声を出すことも少なくなりました。
一方の母は、父の体調を気にかけて「歩かないと歩けなくなっちゃうでしょ」「声を出さないと言葉が出なくなっちゃうから、新聞を音読して」などと、毎日小さなお説教をしています。
あれほど短気だった父が、にこにこと母のお説教を聞きながら
「ちゃんとやってるよ(やってないのに)」「そんなに怒るなよ〜」と笑って返しています。
以前はどんな場面でも冷静で落ち着いていた母が、今は父の体調や言動に一喜一憂し、振り回されているようにも見えます。
でも、それがなんだか微笑ましくて、幸せそうにすら見えてきます。
母は昔、「父のぐいぐいリードしてくれるところに惹かれて、この人なら守ってくれると思って結婚した」と話していました。
でも今は、すっかり立場が逆になって、母が父をリードし、守り、そしてその傍で父は穏やかに微笑んでいます。
なかなか言葉が出てこない父が、「あぁぁぁあの……」と懸命に絞り出したその先の言葉は、ただの「おいしい」だったりします。
拍子抜けして笑いがこぼれますが、その一言が愛おしく感じられます。
たしかに、父が饒舌に話せなくなったことは寂しくないわけではありません。
でも今の二人のやり取りには、どこか穏やかで、あたたかくて、昔とは違った優しさがあります。
「何かを失った」と思えば、そうなのかもしれません。
けれどその一方で、「新しい日々」が始まっているようにも見えます。
父と母の関係は、変化しながら、でも確かに続いていて、今もなお書き換えられ続けているのです。
カウンセリングの場でも、変化を「失うこと」として語る人は多くいらっしゃいます。
「昔はもっと頭の回転が速かった」
「体力があった」「頑張れていた」
「あの頃はみんなに可愛がられていた」
そうやって、かつての自分と比べて、今の自分を嘆いてしまう方々。
変わったことを「できなくなったこと」として数え、戻れないことへの悲しみや怒りに囚われてしまっているように見えます。
そんなとき、ふと思い出す本があります。
“脳の可塑性”について書かれたものでした。
私の記憶が正しければ、脳には「可塑性(かそせい)」と呼ばれる性質があります。
どこかが傷ついても、別の部位がその機能を補おうとして働きはじめます。
しかもそれは、年齢に関係なく、生きている限り起こり続けるのだそうです。
このことを知ったとき、私は希望を感じました。
何かを失っても、それで終わりではない。
脳は、新しい形で何かを生み出そうとするのです。
それはきっと、脳だけではなく、人生にも言えるのではないかと思います。
人との関係性も、ものの捉え方も、自分自身も。
一度壊れたり、失ったりしても、また別の形で補い合い、再構築していける。
何度も何度も、再生していける。
それは、昨日と少し違う今日を生き直すことができるということ。
見えないくらい小さな変化を重ねながら、自分を少しずつ編み直していけるということ。
ずっと同じ場所に立ち続けなくても大丈夫です。
変わっていくことの中にも、穏やかな喜びや、静かな希望はあります。
変わることを恐れすぎず、その中に生まれてくる新しい関係や、変化していくあなた自身に、そっと目を向けてみてほしいと思います。