常識という偏見

アインシュタインは、こんな言葉を遺しています。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う」

確かに、私たちは大人になるにつれ、常識とされる偏った価値観に気づかないまま支配されているように感じます。

それは本当なのか?
それはどうしてなのか?

そんなふうに疑うこともないまま、「常識」に自分を当てはめようとしていないでしょうか?
そして当てはまらいことが起きると、悩み始めます。
なぜ自分は他の人のように「普通」でいられないのだろう......と。

しかし、「常識」に合わせて「普通」でいようとしすぎることは
自らの可能性や想像力を奪ったり
時には他者を拒絶してしまったりして
視野を狭めてしまうことのようにも思います。

今あるものが最善かどうかなど分からないし
今常識とされているものが本当に正しいかどうかも分かりません。

それなのに、私たちは自分の考えや感情よりも
自分が常識に合っているかばかりを気にしてしまいます。
そして、心は疲れてしまいます。

だから、もっと自由で良いのではないかと思うのです。
むしろ、常識という偏見に流されず、
自分はどう思うのか、どうありたいのか
それに正直であって良いのではないでしょうか。

私たちはつい正解を求めてしまいたくなるけれど
正解は世の中や誰かが決めるものではなくて
自分自身がいつも探していて良いものなのではないかと思うのです。

しかし常識という偏見はとても厄介です。
その枠のなかに当てはまることを自分や他者に求めたり、その枠からはみ出ることの恐怖を抱かせたり......

私自身も、きっと気づかぬままそういったものに支配されているのだと思うのです。
だから私は敢えて疑うようにしています。

なぜそうじゃなきゃいけないと思ったの?
私自身はどう感じたの?
誰かの言葉や世間の常識を鵜呑みにしていない?
そうしなかったら何が困るの?

そんなふうに考えてみると
意外と、そうじゃなきゃいけないわけでなかったり
大して困ることもないことに気づいたりします。

自分以外の他者に対しても
「〇〇だから」という先入観
たとえば、年齢、職業、外見、学歴、収入、肩書き、性格......など、自分が知っている枠に当てはめることなく
その人の言葉や表情、態度にしっかりと耳と心を向けて理解しようと努める。

それが、常識という偏見を投げ捨ててその人と向き合い、その人をその人のまま大切にするということなのではないかと思っています。