私を不自由にさせるもの

相談に来られる方の話を聴いていると、「自分は不自由だ」と感じながら生きている人が、とても多いと感じます。

やりたいことがあるのに、やってはいけない気がする。
言いたいことがあるのに、言ってはいけないと思ってしまう。
その理由をたどっていくと、
「立場があるから」「迷惑をかけてはいけないから」
「常識的に考えて」「そういうものだから」
そんな言葉に行き着くことが少なくありません。

けれど、その不自由は、本当に誰かに命じられたものなのでしょうか。

多くの場合、それは
「こうしておいたほうが安全だ」
「こう振る舞えば間違えない」
そうやって自分を守るために、いつの間にか自分自身が引き受けてきたもののように思います。

不自由は、押しつけられるものというより、自分の中で「正しさ」や「責任」と結びつき、手放しにくくなっていくものなのかもしれません。
だからこそ、不自由に縛られて生きることは、ある意味、とても安心でもあります。
「決まりだから」「そういうものだから」と言えてしまえば、自分で選ぶ責任を、背負わなくてすむからです。

私自身も、専門職として働く中で、心の中でこんな言葉を繰り返していました。
「これは役割として私に課されている」
「これは、役割の範疇を超えた余計なことかもしれない」

そうやって線を引きながら振る舞うことは、守られている感覚でもありました。
けれど同時に、自分が大事にしたいものを抑えながら動くことに、少しずつ違和感を覚えるようになっていきました。

相談の場で出会う人たちは
「本当は自分の信じたことを選びたい気持ちがある」
「でも、それを選んでいいのか分からない」
そんな思いを抱えながら、立ち止まっているように思います。

その姿を見ていると、多くの人が、誰かに命じられたわけではない不自由を、
「自分が守るべきもの」だと思い込んだまま生きているのではないかと感じるのです。
その不自由は、本当に背負い続けなければならないものなのでしょうか。

もし今、あなたが何かを「我慢している」としたら、
それは本当に、あなたに課せられた不自由なのでしょうか。
それとも、これまで自分を守ってきた選択なのでしょうか。

その答えは、簡単に出るものではないのかもしれませんし、正解不正解もありません。
でも、もしあなたが自分の不自由さに目を向けたいと思っていて、それが一人では難しと思ったら、
私たちと一緒に、あなたの不自由について、考えてみませんか?